昭和51年07月18日 月次祭
教祖様の御教の中に『子を産むはわが力で産むと思うな』という御教えがあります。自分で力むな自分が産むじゃない。神様のお恵みを受けなければ出来んのぞと。いかにも力んだようでもその力みとても神様が力まして下さるのぞ。と言う事でございましょう。今日の昼の信行の後に、秋永先生の奥さんがお届けをしております。今朝方から不思議なお夢を頂いた。それで今日は説明しても分らんからと言うて、人形を描いて絵を描いてきております。それはその人形はここの上野先生。
そのう上野先生が赤ちゃんが出来られた。おかげで安産のおかげで頂いたけれども、その後がお腹が二段に二つになっているところを頂いた。こう言う様な風にしといてそのう、絵を描いてきておられました。ほんに段々信心をさして頂いて神様のおかげで、いうならば自分の力で産むのじゃない、神様のおかげで産ましてもらうのだという事が分って、安産のおかげを頂いた。ところがそのう産んだ後がまたそんなら私が育てるというのではない、やはり神様の御恩恵を受けなければ出来る事ではない。
お腹が二ついわゆる心が二つではいけない。いや自分と神様はと言う事ではない、神様のおかげを頂かなければ、おかげが受けられんのだと。そこに氏子あっての神と仰せられる、そのう神でもなからなければ氏子でもない、神と氏子のあいの中から、いわゆるひとつになる処から、おかげが感じられるのであり、お道の信心でいうおかげげ観というのは、そう言うものだと私は思うです。神様のおかげを頂いたと言うても、そんなら神様に一心にこちらがお縋りしなければ出来ません。
というてもお縋りしたからおかげを頂いたのじゃない。そのお縋りそのものとてもやはり神様のおかげを頂いて、いうならば子を産むのにやはり、力むがなければ出来ますまい。けれども私が力んだので産まれたのではない。力む処の大元の働きもやはり神様のおかげを頂かなければ出来ない。この辺のところの信心が分かるとおかげを受けて、そしてそのおかげがいよいよまた、おかげということになって参りましょうけれども、産んだ時には神様からおかげを頂いたけれども。
産んだ後は自分が育てたと自分の子供だと、言う様な考え方ではこれに徹底する。それに徹底して分ると言う事が、金光様の御信心だと思います。これはまぁ日々の朝の御理解にしろ今信行の昼の御理解にしろ、こうしてお祭りを頂いて皆さんにお話しを聞いて頂くにしろ、今日は何を話そうかという、私が何を話そうかという力みがあっては、お話にならない事をいつも実感致します。ただ神様に話させて頂く。そこからなにか神様にヒントを頂く、そのヒントが次々と私の信心体験を通して。
纏められてお話になって来るのです。そこでここでのお話は親先生のお話しでない。言うならば神様が私の喉なら喉を、声なら声口なら口を通して、皆さんに聞いてもろうているのだという事でございますから、その話しの内容が切々として訴えられるような時には、神様がせつせつとして訴えておられるのである。頼まんばかりの時には、やはり神様が地を低うして、氏子どうぞお話しを聞いてくれよ。おかげを受けてくれよというておられる時である。大坪総一郎が言いよるのではない神様が言いよりなさるのだと。
先ほど前講で末永先生がその事を申しておりましたが、今日も研修の説きに私は本当に、あのうまぁここで修行でもさして貰う、お道の教師でも志ざそうと程しの人ですから、合楽を信じてないはずもないし、私を信じてない訳もないのですけれども、私から見ると何か私が一生懸命お話ししよるのに、頂きょるのか頂きょらんのか言いたい様な感じがする時がある。やはり思いの相違にあり。そして例えばなら御理解を頂いてどう思うかと、今日はそれを皆さん発表しておりましたが。
どんなに思うてもやはり神様の御働きと言うものがです、今日伊藤君が発表していました中には「とにかく合楽に御神縁を頂いておる、もう端から端までの信者の心の上に夜昼なしに、神様がお働き下さってあるということを実感する」というております。だから夜も昼もないいつもかつもない、しかも合楽にご縁を頂いた限り、合楽の信者信奉者といわれる限りの人の上に、天地の親神様のそうして切なる働き、又は切なる神様の願いと言う様なものがあっておるのである。
それを聞いて立たして貰う、それを聞いて行じさせて貰うと、いうところから信心が頂けるのであり、おかげが頂けるのである。ここ二、三日の朝の御祈念の後の教話を頂いても、先日昨日一昨日の朝の御理解に、上野先生が手がこんなに、時々あのうこう痛んだり動かなかったりすることがある実際に。やはり恵子先生が頂いておりましたが、やはりそのう手が不自由である。それでいてピンポンを一生懸命こうやってやっておられる処を頂いた。今日の秋永さんの奥さんのお夢の中にも上野先生が使われておるが。
上野先生ということは天地の親神様ということであろう。又はこれは皆んな誰しもが頂かなければならないという意味の事でもあろう。天地の親神様が言うて見せてござる、して見せてござるのである。ですからこれは上野先生が頂かなければならんと言う事ではなく、皆んなが頂かなければならない。それこそ涙ぐましいまでにも動かん手で、一生懸命にこうやって、そのうピンポンを向こうが打ち込んで来た球をまたこう。
ところが悲しいかな手が動かんし、曲がっておりますから具合よう受けられれず。その受け止めが出来なかったり流したりしておる。それで精進努力もさる事ながら、この曲がっている手を普通にして頂く、まぁ普通ではそれを曲がり根性ともうします。根性が曲がっておる。そこでこれは有り難い事だと言う事がお話しを通じて分っておるんだけれども、これはお礼を言わなければならないと分っているんだけれども、分っているんだけれどもそういう訳にはいかん。
それでもやっぱ一生懸命修行しとる、一生懸命それをどう打ち返そうか、そしてまぁピンポンの球をあっちやこっちやらしておる。だからこれをね言うならば、皆んなが自分の心の上に頂く時にです、これは成る程上野先生だけの事ではない。皆んなの心がです一切が神愛と受けねばならぬと頂いておるから、神愛と受けたら有り難いとお礼が言われなければならない。のにもかかわらずお礼が言えないということは、やはり自分の心の受け方が受けもが言うならば、心が曲がっているからまともにに受けられんのだ。
秋永先生の奥さんが頂いているのがやっぱりそうだ。上野愛子先生が産みだした.生み出しけれどもその後の腹が二つである。二心である。これは秋永文江さんだけではない。上野先生だけの事ではない。お互いの心の中にも本当におかげを頂いたとい打ておるけれども、本当に安産のおかげを頂いたというておるけれども、神様の御恩恵なしには頂けんのだと言う事だと分っているけれども、それを自分が育てる自分の子供だと言う様な感じ方が皆んなにある。
このところがスッキリしてこなければならんと教えておられる訳である。先ほど末永先生もお話ししておりましたように、ほんならステテコの話しでもそうである。その意味を頂いた時。私が頂いた事は信心は要領ではいけない。その身から打ち込んだ言うならば、命をかけてのもの、捨ててこその信心をなさらなければ、我情我欲をすててこそ神様の神愛を分る事ができる。
それこそ命を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるり、年の暮れであり。捨ててこそそこに本当の神様のおかげを分かる事が出来るんだ。それをステテコに「そ」をつけてないから、だらしがない事になって来るんだ。「捨ててこそ」と言うもうその一つの「そ」という字を付けただけで、「捨ててこそ」という『我が身は神徳の中に生かされてある』、もう一から十まで、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというところから、一切が有り難い有り難いと言う事になる。
今日の1時の研修の時に、もう御祈念が始まってから教典を開いて、そして頂くんですから、もう本当に御祈念が終ってぎりぎりがつがつです、いつも頂くあすこにあれだけの事を書き終るのが、3代金光様のお話しを、もう今日の御理解何節でしたかね御理解35節でしたか。だからもう何年も前のちょうど35節のところを開いてみました。そしたら善導寺の親先生が御本部参拝をして、金光様から御教えを受けられた話を、御説教の時になさった。
そして月次祭が終ってこちらに帰ってきて、1時のこの修行にかたらしてもろうて、その事を皆さんに聞いて頂いた。その3代金光様の御言葉に覚えて置いて下さい。「有り難う有り難う受けていかぬと、物事成就致しません.有り難う有り難う受けていかぬと、物事成就致しません。」と言う。ただ御取次ぎを頂いて病気が治ったとか、この事が成就したというおかげなら頂けましょうけれども。いわゆる神様の願いが私共の上に掛けられてある。そういう願いが成就しないと。
これが本当のおかげです。高橋定利にどうぞおかげを受けてくれよと、神様の願いが掛けられているそういう願いがです、成就しないというのです。有り難う有り難う受けていかぬと物事成就いたしません。」それこそ上野先生のピンポンではないけれども、こりゃ有り難う受けにゃあならんならん事が分っておっても腹が立っておる。どうもお腹に収めかねておる。有り難う受けねば成らん、御理解を頂いて有り難う受けねばならん事は分かっているけれども受けられない。
そこにやはりたゆまざる稽古をする事と同時に、先ずは自分自身の心がなるほどこんなに曲がっとっちゃ受けにくいという、いわゆる今日の御理解に、日々の御理解にありますように「信心は日々の改まりが第一」と言う事になってくるのです。これが自由自在に動いてそして、その言うならばこうピンポンすれば自由なゲームが出来ます様なものじゃないでしょうかね。
今日朝の御祈念の後に、福岡の川上さん夫妻が親子四人でお参りになった。もう毎日お母さんが参って来ます。日曜の時にゃもう親子四人でみんな揃うて参って見える。ところがどうした事か、道を間違えてもういつも行った事のない道に入ってしまった。それでお母さんがお礼を言うておられるのに、今日は自動車が間違いましたおかげで、もう日頃は普通見らんごとあるところの景色まで、見せて頂いたと言うてお礼を言うて居られます。もうこの生き方に尽きるのです。
あんたがぼっやとしてるから道を間違えるたい、と言う事がなかって「やぁおかげじゃがおかげじゃが」という頂き方。それをね例えば一生懸命日々の信心の修行がこう出来ているから、それが受けられるのです。今日私、高橋さんの朝の御祈念の後の御届けを聞かせて頂きましたら、今日奥さんと二人で参って来られている。昨日は高橋さん奥さん二人を前にしてある問題があった。もう長々とそれこそ私は本当に映画とか芝居とかいうのは、事実は映画とか芝居とかよりもっとあるなぁと思いました。
もう芝居以上のような事でした。もう芝居でならばそれこそ血の涙を流して、夫婦のものが残念がるとこでしょうね。奥さんも大して心に掛からなかったというが、高橋さんははぁこりゃいよいよおかげが近ずいて来たなと思うたというて居られます。そういう言わば受け方が自由自在に出来るという事もです、それこそなら川上さんにしろ高橋さんにしろ、本気でその事に取り組んで居る。曲がっておるなら正しもしよう。
汚れておるならば垢も落とそう。そして一生懸命の信心の処に、神様の願いが成就して行きよるのである。そういう私は頂き方以外にはないと思う。そしてなら神様のおかげを頂いた。そのなら暁とても私達がこういう修行をしたから頂いたのではない。産みなすと言う事も神様のおかげを頂かなければ、人間の神の恵む処であり、神様がお待ちして下さるのである。
今日ちょうどに4時下がろうとしているところへ、勿体島の原さん達が、原さん達じゃない小西さんが夫婦両方でお参りになった。ほんに去年のご主人があぁした大変な病気を致しました時に、病気入院させて貰った。増々悪くなるばかりこのままいきゃ御飯もいけん眠りもされん。もうこりゃ死を待つ外はなしと言う様な感じであった。お医者さんの薬を飲めば飲むほど悪い。
そこで私が「それならもう思い切ってもう連れて帰って来なさい」ちゅうた。その一言で腹がきまって帰ってきた。おかげで病気の者がお参りする様になりおかげを頂いて、今日銀行でまた務めに出らせて頂いておる。丁度一年になるというお礼お届けがございました。その時に鯛のお供えを持って見えた。一生一代である、お神酒と鯛とのお供え、それを今朝方からお夢を頂いた。久富茂雄さんがそのうおかげを頂いたとお礼に出て来たというて。鯛を持ってお参りになっておられる処を頂いた。
今日のあんた達のはこの事だろう。久冨繁雄というのは久冨繁雄ではなかろう。久富という事は久しく富むと言う事である。茂るとは繁ると言う事である。繁るとは敏にこう糸と書いてある。だからいよいよ末繁盛いわゆる家繁盛のおかげの頂けるためには、お徳を受けなければなりません。一年前に無い命を助けて頂いたと言う程しおかげを頂いたが、そういうおかげを頂いたそういう信心を元にして。
これからはお徳を受けるおかげ。この次には言うならば鯉のお供えでもさして頂く様なおかげにならなきゃなりません。鯛といえば海の物のお知らせは「おかげ」と言われる。お徳の事を川の物、その最高のものは鯉といわれる。おかげを頂いて鯛のお供えが出来たから。これからは久冨繁雄という徳の鯉がお供えが出来るような、おかげをまぁ受けてくれよと神様の願いが、お夢のなかに現われ感じられるのであります。
神様のおかげをです私共が頂くという、その頂いたその後を大切にしなければならない。やはり産みなす事も神様のおかげならば、産みなした例えば子供を育てさせて頂くと言う事も、育てさせて頂くのであって。神様のおかげを頂かなければ出来んのだと言う事になる。その辺の処がどうも二ッ腹になっておる、二心になっておる。こりゃお互いの信心を厳密にいうと、そう言う事になってくるのです。
そこで私共がいよいよ神様のおかげを頂かなければ、先程末永先生が申しておりますようにです、いよいよ無芸無能であり無才であるという自覚、私には何んの力もないという自覚に立たせて頂く時に、一切が神様のおかげとして受ける事が出来る。一切を神様のおかげとして受ける事が出来るから、誰よりも有り難いということなる。その有り難い心でなからなければ、あれもおかげこれもおかげと言う様に、そのおかげという頂き方、金光様のお言葉ではないですけども。
何でしたかねなんじゃたの あぁ「有り難う有り難う」じゃったの。そう皆さんの方が先に覚えちゃる。覚えとかにゃいかんですよ。『有り難う有り難う受けなければ、もの事成就致しません』という事になるのです。だから私共がねその「有り難う有り難う」頂ける為にそれこそ川上さんじゃぁないけれども、朝の御祈念にまいってくる。そして一旦帰いられる。そしてまた修行に一時の修行に通うて来なさる。そしてまた夜の御祈念には、ご主人とそれこそ手に手を取って又お参りがあっとる。
これが今日だけじゃない。いつぅもそうなのな処にです、成程川上さんにしていえる事、道を間違えたけれども、その間違えた時ちゃ言うちゃおられん。本当に今まで見た事なか景色を見せて頂いたというてお礼を言うておられる。もう馬鹿ん事あるけれども、そういう有り難う有り難うとはそういう事なんです。『有り難う有り難う受けていかなければ、物事が成就せん』ということを、一つ腹の芯から分からして頂いて、いよいよ私が無芸、無能、無才であるという一つ自覚に立っての信心を頂きたいと思います。
どうぞ。
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